芸術に拍手

全記事ネタバレ祭り。レポと感想と妄想が大渋滞起こしてる。

あの記憶の記録

 

『熱狂』/『あの記憶の記録』

2017.12.7-19 東京劇場劇場 シアターウエス

 

若き日のヒトラーアウシュビッツの生き残り、二人の主人公を通して描かれる史上最大の悲劇、第二次世界大戦

1923年、ミュンヘン一揆に失敗した34歳のアドルフ・ヒトラーは、被告として法廷に立つ。しかし、まるでそこで彼は主人公のように振る舞い、演説する。「ドイツ民族の復興」を掲げたヒトラーナチスの権力掌握を目指す闘争はその時から始まる。政権を掴む1933年までのヒトラーナチス幹部の歩みを描く『熱狂』。
1970年、イスラエルアウシュビッツを生き延びた一人の平凡な男は家族を持ち、幸福な毎日を送っている。しかし、彼には家族にも語れない秘密がある。それは暗く、黒く、深い闇のような「あの場所」での記憶。アラブ諸国との戦争が続く情勢の中、彼の愛する息子が銃を取ることを選んだその時、彼の重い口が遂に開かれる。大量虐殺を生き延びた男の苦悩を描く『あの記憶の記録』。
戦争に至る道と、その後の世界を描くことによって、人類最大の負の遺産第二次世界大戦』を問い直す。

  

 

 

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12.15 最前列センターにて

 

 

「あの記憶の記録」を観ました。

全く別の二作品を同時期に交互に演る、珍しい形式。「熱狂」も観たかったな。

 

 

 

 

軽く下調べはしたつもりだったが、まさか泣くとは思わなかった。何度泣いたか、どこで泣いたかはもはや覚えていない。

演劇で、「恐怖」の感情で涙が出るなんてそうそう無いように思える。

怖い、悲しい、つらい。

腹に力が入る。観劇後は、酷く疲れた。

 

 

 

物語の半分は、アウシュビッツの体験記です。

昔聞いた、広島原爆の被爆者による生講演を思い出した。

舞台で語られるのは、つぎはぎかつ非当事者の想像上で構成された出来事。それでも凄まじいリアルを感じる。

 

大机を引きずる音は、聞いたこともないガス室の扉の開閉する音をはっきりと想像させる。
椅子は死体になる。死体処理で椅子を端に投げ捨てるのだが、時々、椅子の脚が絡んですぐに剥がれない。

ガス室の明かりを消した」ことを語りを聞きながら劇場が真っ暗になったときは、もっとも恐怖した。いつ悲鳴が聞こえてくるか、気が気ではなかった。

SS(ナチス親衛隊)の靴音は他より大きく響いているように聞こえる。ラスト、舞台前方ギリギリに立ったSSに最前列で見下ろされたときは、ただ目が合わないことを願った。

 

 

イツハクの記憶を聞くイツハクの家族および先生は、それぞれの考えのもと、異なるリアクションをとる。

彼らは観客の一人であり、観客もまた舞台上の彼らの一人であったように思う。

他の観客は、誰の立場で舞台を観たのでしょう。

 

現実主義の先生はイスハクからの握手を拒み、最後まで思想に同意はしませんでした。

これが現実なんだろうと思う。フィクションであれば、間違いなく、全員がイスハクの思想に同調し、大団円で終わるような気がする。

 

 

 

印象的なセリフ

「お前の命はイスラエルよりずっと価値がある」

「俺達が滅んでも、憎しみは消えない」

「生きることは素晴らしい」

「嘘でもいい、子供たちには"戦争はいつかなくなる"と教えてくれ。それが一歩になる」

書き出してみてもどうにも伝わらないなぁ。

 

ストーリーとして、記憶の語りの前後に、平和な日常がある。

このコントラストは演劇だからこそ出せるものだった。だから余計に「生きることは素晴らしい」が響く。

 

 

ふと、今年観た別作品を思い出した。

メサイア 悠久乃刻」と「ヘタリア in the new world」。この二つは完全にフィクション。しかしどちらも「世界平和」を扱っている。

その結末は、

前者では「世界平和のために人を殺し続ける」

後者では「世界平和を願い、平和を想像する」。

では前者は(極端な言い方をすると)戦争肯定派なのかというとそうではなく、

「人が死ぬのって、大変なことなんだ」

と命の重さを承知したセリフがある。

目指す方向は同じなのに、こんなにも過程が異なることを実感した。

憎しみは滅びず、争いは起こる。

ただ私は、「想像する」ことを信じたいと思った。

「人が想像することは、人が必ず実現できる」

という言葉は有名だろう。そういう事だと信じたい。

 

 

 

2017年の現在、アウシュビッツの記憶を持つ人々の年齢は90代だとか。本物の記憶を持つ人がいなくなる日は近い。

この演劇を映像で見ると、必ず印象が変わる。舞台全般に言えることだが、正直ナマの空間には到底適わない。

だからこそ「演劇」として、このような作品は何度でも「上演」することが必要なのだと思う。

 

 

 

 

★★★★